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2013.11.30. 免疫講座 お釈迦様に学ぶ心の免疫

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2013.11.30. 免疫講座 お釈迦様に学ぶ心の免疫

2013.11.30.(土)13:30~15;00


エステティック モリマサ プロフェッショナル スクール

講師:日本橋清州クリニック 院長 佐藤義之先生


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『お釈迦様に学ぶ心の免疫』

 

今日はまず最初に、猫がガンを治したとしか言いようがないという患者さんのお話をしたいと思います。乳がんになられて肝臓、骨に転移しており、現代医療では難しいということで、私のところに来ていました。

彼女は猫を飼っており、私自身も猫好きということもあって来院されるときにはいつも乳ガンの話はせずに猫の話で30分近く雑談してしまうこともありました。

その方は猫を飼いたくて仕方がなかったのですが、自分が今置かれている状況や自分が死んでしまった後の猫のことを考えると厳しいということをおっしゃっていたので、私は飼った方がいいですよと言って、もし何かあった時には私が引き取りますからと言って、その日はお別れしました。そして3か月ほど空いて10月にいらっしゃった時に、3か月分の腫瘍マーカーの検査結果をお持ちになられました。

以前通っていらっしゃった時には、徐々に上がり方は鈍っていたものの、腫瘍マーカーの値はもちろん高い状態でした。しかしいらっしゃらなかった3か月の間に値がぐんぐん下がり始め、とうとう9月には正常値まで下がってしまったのです。

 

これからCTを撮ってガンがどうなっているかを見てみなければ分かりませんが、腫瘍マーカーの値については事実です。これはやはり心の免疫が働いたとしか言いようがありません。

私は約20年間、心の免疫というものを追いかけてきましたが、その中でお釈迦様の考え方に大きなヒントがあるのではと考えています。

お釈迦様は、諸行無常、一切皆苦といった様々な言葉を残していますが、私はなぜお釈迦様がこのような一切皆苦という後ろ向きで悲観的な言葉を残したのかずっと疑問に思っていました。今日は、そういったことについて考えてみたいと思います。

 

私が心の免疫とは一体何なのかと追いかけ始めたころに出会ったのが、現在薬師寺の管主をされている山田法胤さんでした。当時は執事長で、色々なことを教わり、その先にある心の免疫に繋がるヒントをくれました。皆様も管主の話や私の話を聞いたときには、そのまま鵜呑みにするのではなく、自分の中で咀嚼をして、今後の生き方に繋げてほしいと思っています。

先日薬師寺を表敬訪問させて頂いた時に案内役の方が、薬師寺は学問寺であるとおっしゃっていました。薬師寺、法隆寺、東大寺、興福寺、唐招提寺といった奈良の有名なお寺はお葬式をやりません。何をやっているのかというと、表向きには仏教を学んでいるのです。

ですから薬師寺に行けば、僧侶がいます。薬師寺が学問寺であれば、僧侶は学僧なのです。

この学僧という捉え方を間違えてはいけません。私は今まで色々な寺に行きましたが、素晴らしい法話や説法をする僧侶もいれば、箸にも棒にも掛からない人もいます。ですから学び方によって、大きな差が出てくるのです。

お経をどのように勉強すれば良いのかというお話をよく聞きますが、仏教の中に「念誦」という言葉があります。これは、面と向かって授かるという意味があり、本を読んでいるだけでは学べず、色々な人の話を聞いて考えを深めていくべきだと私は考えています。

毎月12日には、五反田にある薬師寺の別院で色々な僧侶のお話が聞けますので、そういったものを聞いていくことで、自身の心の免疫が開けていくのではと思います。

その中で私は、20年前に学僧の中で山田法胤さんの話が一番素晴らしいと思いました。

 

仏教の中では、苦の真理というものを追究しており、それは毎日が苦しいという意味ではなく、人生は思い通りにはいかないものだということを言っています。

西洋では不条理と言われているもので、これを受け入れられずに何とか思い通りにしようとして、結果的にそれがうまくいかずに恨んだり、怒ったりすることを総称して「苦」と言っていますが、私はそれが本当の「苦」だということには、疑問を持っています。

その「苦」が煩悩であり、それを脱却するには煩悩を払うしかないと言われていますが、私はお釈迦様が煩悩を払えなかった人だということを知っています。

 

最近、問題になっていることに食品偽装がありますが、これをお釈迦様は紀元前500年に予言していました。その予言が、「世の中が豊かになるほど、五濁悪世が起こる」というもので、五濁というのは、5つの汚れを意味し、そのうちの2つをご紹介します。

1つは、水や空気、食物、社会(中身の無い本など)という時代の汚れ。

もう1つは見濁というもので、一か所で見つかると、次々と事態が発覚していく社会全体のモラルの低下があります。

なぜモラルが下がるとのかというと、「ここまでは大丈夫だろう」という感覚です。身近なところでは、つい最近までペットボトルをラッパ飲みする人はいませんでしたが、今では、和服でも人前でもラッパ飲みが当たり前になっています。

自分たちの中では、それがモラルを低下させているという認識が無いのですが、それが「苦」なのです。

このような状態になることをお釈迦様は、五濁悪世というお経の中で予言していました。ですから一切皆苦というものを考える上で、このお経はとても重要なのです。

そして一切皆苦の「苦」の起こる先を探さなくてはなりません。

それは欲望(煩悩)

 

1. 貪(むさぼり):お経の中で「貪」は「よろずのものを貪る」とあります。したがって何でも欲しがることなのですが、実際には本人にはその自覚がありません。例えば「前年同月比」があり、何としても前よりも欲しがろうとする気持ちは貪り中の一つなのです。

2. 痴:なぜ貪るのか?それは賢くないからで、知恵が病気になっていと書きます。(痴であるから貪る、貪るから痴になる)

3. しん:腹が立つのは痴であるからか?欲が深いから腹が立ってくるのか?

 

貪、痴、しんを三毒と言います。これは超えるに越えられない三途の川のことです。

苦の元であり、逃れることはできません。おしゃかさんでも逃れられなかったと言っています。

欲のために迷いが生じます。迷いが苦しみを作り出していきます。夜も眠れず、眠れえぬ者に夜は長しなのです。

 

愚以貪自縛

不求渡彼岸

為貪愛欲故

害人赤自害

                         怯句教より

 

 

 

人間は幸せになるために考えます。その幸せとは何でしょうか?楽をすることなのか、便利になることなのか、合理主義なのかというと、そういうことではないはずです。

昔も幸せであったのではないのでしょうか。

私たちが子供のころの遊びは、石けり、縄跳び、かくれんぼ、お金は全くかからず、皮で石投げもしました。

楽をするということは、人間の持っている能力を使わないことではないでしょうか?

合理はまず道理にかなっていなくてはならないのではないでしょうか。

人間のやっていることはことをうまく進めているように思いますが、手落ちがたくさんあることに気づかなくてはならないのではないでしょうか?

 

エネルギー開発も進めて、原発をつくりました。しかし一度事故が起きると、止めても止めることができないということも知りました。

世界一を誇るトヨタ自動車も利益は上げていますが、本当に幸せなのでしょうか?

自動車をとにかく造り続けなくてはならないはずです。もう止められないのです。

しかもたった1つの部品が調達できなくても、車は完成しないのです。

家電メーカーも同じです。

ですから苦から逃れる道はなく、そういったことを自覚したとき、はじめてこの辺でちょうどいいのではという考えに到達するのです。

 

人はただ身の程を知れ

草の葉の露も重きは落つるものか

                           徳川家康

 

 

欲深き、人の心と降る雪は

積もるにつれて、道を忘れる

                           作者不明

 

宗教は、人間にとって必要なものなのでしょう。なぜなら人間の暮らしは、永遠に不公平が続くものだからです。不公平で理不尽だからこそ、もう一つの世界が無ければ救われないのです。思うに任せぬのが人生です。

悲惨な人間の一生を、少しも悲惨と感じることなく、希望と喜びをもって感謝しつつ、死を迎えられる道が宗教なのかもしれません。

 

道徳は目に見える世界ですが、宗教は目に見えない世界です。私たち日本人は、この見えない世界に豊かさを感じてきた民族です。見えない世界の実在性を感じてきた民族です。

 

そして、人間の力は凄いとか、偉いと思っているのかもしれませんが、自然の力の前には、無力であることを自覚するべきです。

人間は自動車をはじめ、様々な物品を作り出していますが、材料は皆、自然の大地の中から取ってきたもので、科学的にちょっとずつ変化させ、手を加えていますが人間が作った原料は何一つもありません。

いかに自然の恩恵にこうむっているかを考えた時、天と地に感謝しなければなりません。

現代人に気になるのは、おごりと高ぶりです。昔の人にあったものは祈りと感謝です。

 

・お釈迦様かのメッセージ

 

お前はお前でちょうど良い

顔も、体も、名前も、背丈も、お前にちょうど良い

貧しさも、富も、親も、息子の嫁も、そのまた孫も

それはお前にちょうど良い

幸も不幸も喜びも、悲しみさえも、ちょうど良い

歩いた人生、悪くもなければ良くもない

お前にちょうど良い

地獄に行こうが、極楽に行こうが、いったところがちょうど良い

自惚れようもなく、卑下することもなく

上もなければ下もない

 

死ぬ日、月さえもちょうど良い

仏様と二人連れの人生

ちょうど良くないはずがない

これで良かったといただけた時、憶念の心が生まれます。

 

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